Diary亭日乗

「宮城レポート2015.3.11」杉崎正則展

板垣マリ子
「宮城レポート2015.3.11」杉崎正則展
13日の金曜日。何も予定がない日だったので、Diaryを見ると、宮城レポートというイベントが行われていると書いてある。ちょっと行ってみよう、と思い立った。
途中から、スマホのナビを使いつつ、無事会場に到着した。 恐る恐る入り口のドアを開け、中に入ると、私の頭の中にあった美術の個展のイメージは根底から 覆された。入って右側の壁一面に、半分くらい錆びたトタンの板が展示してあり、反対側の壁には椅子がいくつか置いてある。会場内にあるものはそれだけだっ た。さすがに声には出さなかったが、入った瞬間、(えっ?!)と思ってしまった。
私は会場を見回すと、とある張り紙が目に入った。そこにはこのように書かれていた。【今回の個展は、錆びたトタンの板を展示します。このトタンの板を見た ときに、大震災の時の津波の航空写真の記憶が鮮明に蘇りました。降雨によるさびと、津波の航空写真との因果関係はありませんが、依然として、震災の記憶と 結びつけて物事を見てしまいます。震災の記憶、人間の記憶の根深さにただ恐れをなすばかりです。】
この張り紙を見て、トタンの板を展示している理由が分かった気がした。会場にいた男性。この人こそ、この個展を開いていた杉崎正則さんだった。私は早速話を聞いてみた。
杉崎さんは、震災当時、ちょうどこの会場にて個展を開いている最中だった。結局、その個展は中止になってしまった。その為毎年この時期になると、この会場 で震災に関する個展を開いている。杉崎さんの家は山の上にあり、ライフラインは無事使えた。しかし、問題はライフラインではなく、仕事のほうだった。杉崎 さんは、震災当時何度も流された、特に津波の映像を観るのが精神的に辛く、いろいろな想いが浮かんでしまい、しばらくの間仕事が全く手につかなくなってし まった。
杉崎さんは、名取市閖上の津波の慰霊碑を作った。そして、塩釜市の海側にある慰霊碑も作った。塩釜市を襲った津波の高さは2.3mだった。慰霊碑を作ると なった時、杉崎さんは例えば子供でも、津波がどのくらいの高さまで来たか見てすぐわかるようにしたい、と思った。そこで、塩釜市の慰霊碑は、慰霊碑に 2.3mの部分にここまで来ました、という印を入れ、尚且つ、慰霊碑全体の高さが、塩釜市を襲った津波の最高の高さ、4.8mになるように作った。問題は 閖上の慰霊碑だった。閖上の津波は、最高でなんと8.4mになった。8mを超える石はなかった。考えた末に、土を盛って山を作り、その上に慰霊碑を作る事 で、最高の高さ、8.4mで慰霊碑を作る事が出来た。杉崎さんは、震災を知る世代が次の世代に伝えていくときに、慰霊碑を見せて、あの高さの津波が来たん だよ、と話す事で、数字だけではなく、実際の高さとして伝える事が出来るから、慰霊碑を作ってよかった、と話してくれた。
話を聞けば聞くほど、本当に凄い事が起きたんだな、と痛感した。慰霊碑のおかげで、伝えていく方法が増えた。私達は、これから前を向いて生きていきながらも、震災の事をしっかり伝えていかなくてはならない、と改めて決意したのだった。