グラスルーツ・マガジンズ ー文芸編ー

文芸誌『川柳宮城野』雫石隆子さん〈『川柳宮城野』主幹〉

文芸誌『川柳宮城野』雫石隆子さん〈『川柳宮城野』主幹〉1
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インタビュー:雫石隆子(しずくいし・りゅうこ)さん〈『川柳宮城野』主幹〉


◆『川柳宮城野』は「川柳宮城野社」が毎月発行する川柳誌。1947年(昭和22)に濱夢助(はま・ゆめすけ/1890~1960)が創設した「川柳宮城野社」の同人・会員の作品を中心に掲載する。会員は約700名。現在は川柳作家の雫石隆子さんが主幹を務める。


◇『川柳宮城野』は昨年(2014年)5月で800号になりました。創刊が終戦から2年後の10月ですから、今年で68周年を迎えることになります。

 私は「川柳宮城野社」の5代目の代表で、初代は「東北川柳の神様」と呼ばれた濱夢助です。〈雪国にうまれ無口に馴らされる〉という代表句の句碑が、1962年、仙台の西公園に建立されています。

 代表は初代から4代までが男性で、女性は私が初めてです。川柳もかつては男社会でしたから全国的にも女性の代表は珍しく、伝統ある結社では、おそらく私が初めてでしょう。

 『川柳宮城野』は、東北・北海道で最大の規模、最高の位置にある川柳誌です。毎月発行して、現在は700名の同人・会員の方々にお送りしている他、仙台市内の書店でも販売しています。

 表紙の絵を描いてくださっているのは、宮城県芸術協会の理事長を務められた小山喜三郎先生です。中を見ると巻頭言に続いて、同人欄、自由欄、課題欄などに分かれて作品が掲載されています。私が執筆している川柳教室もあって、おもに初心者向けです。

 川柳には風刺が効いたもの、詩情に満ちたものなどいろいろありますが、どれか一つにはこだわらないというのが、初代の夢助先生の理念でした。『川柳宮城野』は今も、「良いものは何でも」という先生のお考えを継承しています。

 「川柳ブーム」とも言われますが、私たちを含めて伝統結社はどこも運営には苦労しています。「川柳宮城野社」は十数名のスタッフで運営されているのですが、私は10年ほど前、そのスタッフ間の投票で代表に選んでいただきました。それ以来、伝統結社の主幹としての責任を果たそうと努め、全日本川柳協会などの業務にも力を尽くしております。


◆雫石隆子さんは現代の代表的な川柳作家の一人。宮城県生まれで、「川柳宮城野社」代表のほか、宮城県川柳連盟理事長、全日本川柳協会理事を務める。句集に『樹下のまつり』、編書に『濱夢助の川柳と独語』(新葉館出版/2007年)などがある。


◇私は宮城県生まれですが、昭和50年代に福島県郡山市に住んでいた時に川柳と出会いました。習い事の一つだった書道の、佐久間蘭(さくま・らん)先生が川柳もなさっていて、お誘いいただいたのがきっかけです。詩と対比させながらのご指導は大変興味深く、主人の転勤で仙台に戻ってからも続けることにしました。

 そのとき師事したのが、川柳作家として全国的に有名だった大島洋(おおしま・ひろし)先生です。文学としての川柳にかける情熱、作品に表現される人間への愛が本当に素晴らしい方で、私も先生の所属する「川柳宮城野社」に入れていただきました。

 両先生に川柳を学んだことは私にとって幸せでした。川柳界では常に新しいものを求めて勉強し続けなければなりませんが、両先生からの学びが今の私をつくったと言って良いと思います。

 川柳は短歌、俳句と並ぶ定型詩で、成立したのは江戸時代の中期です。松尾芭蕉が確立した「俳諧」に対して、正岡子規が「俳句」という言葉を使い始めた時期を俳句の成立とすれば明治時代になりますから、川柳の歴史は俳句よりも古いことになります。たとえば「盗人を捕らえて見れば我が子なり」という句は、「きりたくもありきりたくもなし」という〝前句〟に〝付け句〟を競う、当時の遊びの中から生まれました。

 同じ五・七・五の音をもつ俳句が花鳥風月を詠むのに対し、川柳はどこまでも人間、人事を題材とします。また、伝統的に無名性を誇ってもきました。

 川柳は短歌や俳句に比べて「間口が広い」のは確かですが、それだけに難しいと言うこともできます。一句を「吐く」という表現がある通り、川柳とは本音を吐き、血を吐く想いで作るものだとも言えるのです。逆に言えば、自分の中にあるものを「吐く」ことで楽に、またさわやかになれるという、楽しい、癒しにつながる文芸でもあります。


◆「河北新報」で「河北川柳」の選者を務めるなど、雫石隆子さんは仙台・宮城の文芸振興に寄与してきた。また「川柳宮城野社」の101名が、東日本大震災を詠んだ川柳と被災体験を『大震災を詠む川柳 101人それぞれの3・11』(河北新報出版センター/2011年)にまとめている。


◇川柳の地域性ということで最初に思い浮かぶのは、「西高東低」という言葉です。川柳が生まれたのは江戸ですが、やがて関西でその人口を増やし、レベルも上がりました。口語体で詠まれる川柳ならではの「軽(かろ)み」が、関西弁にはもとから備わっていたことが大きいと思います。また江戸は、発祥の地だけに伝統にとらわれてしまいがちでもあったようです。

 そして東北の川柳には、「暗さ」という特徴があります。夢助先生の作品にも批判や真面目さが感じられますが、それこそが東北の川柳ならではの、借り物の表現ではない実体なのです。自分の本当の想いを込めた句が持つリアルな価値は、決して他の特徴を持った句に劣るものではありません。

 2011年の東日本大震災後には、そうした句がたくさん作られました。私が選者を務める河北新報の川柳欄には、震災前を上回る数の投句があり、今でもそれは変わりません。私は川柳が、「いのちの文芸になった」と思いました。「川柳宮城野社」が編んだ『大震災を詠む川柳』にも、そうした多くの作品が収められています。

 震災からわずか3カ月後の6月、私たちはかねてからの予定通り、仙台で「全日本川柳協会」の全国大会を催しました。全国から史上最多の参加者にお集まりをいただき、このような時だからこそ、川柳という文芸の持つ力を再認識することができたと思います。

 震災を詠む句は、復興が進む今も作られ続けています。郷土のかさ上げ工事に対する想いなど、川柳の種が尽きることは決してないのです。

◆『川柳宮城野』は2014年までに807号が発行されている。


◇震災に限らず、忘れられがちでも大切なことはたくさんあります。今後はこれまで多かった暮らし中心の川柳に加え、政治や経済を詠む「時事川柳」にも力を入れて、そうした題での句会も開いていきたいと思っています。

 『川柳宮城野』の読者は北海道から九州まで、そしてニューヨークにまでいらっしゃいます。紙媒体の衰退が言われますが、今でも到着が一日遅れただけで電話をかけてくる熱心な読者がたくさんおられるのですから、私たちは今後も『川柳宮城野』を出し続けて行くつもりです。

 もちろん先々に不安はありますし、新たな味付けも必要でしょう。しかし電子媒体に比べても、すぐに取り出して過去の号を振り返ることができるなど、優れている点は少なくありません。活字文化がすたれることは、決して無いだろうと思っています。

(インタビュー:2015年2月26日)

〈取材・構成:大泉浩一〉