八重洲書房の棚 1970‐1993

1983年の「新しい『知』のもとめに」

八重洲書房の店主であった谷口和雄氏によって、1983年に書かれたテキストを転載する。バーコードによるPOS管理も、手書きPOPの横行も、ネット書店の定着も、まだ先の話だったころ。しかし、ここで語られている“棚”の在り方や問題意識は、書店において普遍的/不変的なものではないか。発表媒体は、人文書出版社によって構成される団体・人文会の機関誌『人文会ニュース』。(高橋)


新しい『知』のもとめに


仙台 八重洲書房 谷口和雄
 
  出版不況、人文書の売れ行き不振が言われるようになって数年たつ。私の店が三坪の店でオープンしたのが十三年前、当初から人文書を中心とした品揃えでやってきた。その立場から人文書の売れ行き不振ということを考える時、状況の一般論に問題を解消してもしようがないな、といつも思ってきた。むしろそれは、読者像の社会的変化を書店側が把みきれずに、対応力を失った棚づくりをしていることへの読者の解答であり、主体の側の問題であるという感じがする。
 

  読者像の変化について

 
  私が学生だった頃、例えば、マルクスの『経哲草稿』、吉本隆明の『共同幻想論』を読んでいるということが学生同志のコミュニケートの前提となるという状況があった。このコミュニケートの前提としての読書は若者の大きな読書空間を形造っている。このコミュニケートのあり方、読書空間が、現在大きく変貌してき ているのではないか。
  まず今の若者は、さまざまなメディアからの情報に、大きな価値を置いている。本当によく雑誌を買う。私の店でも、東京の情報誌でしかない『ぴあ』が二十~三十部売れる。私の学生時代には想像できなかったことだ。その情報が、ファッション、映画、音楽、生活、書籍その他と多様化しつつ、若者同志のコミュニ ケートの前提になっているのではないか。話は横道にそれるが、最近、「『プレイボーイ』でみた書名がわけのわからない本」とか「『クロワッサン』でみたものぐさの本」という聞かれかたが多くなったような気がする。それぞれ『パパラギ』と『ものぐさ精神分析』のことだったが。こういった読者の特徴は、書名、 出版社名の記憶は不鮮明でも、その情報を与えてくれた雑誌の記憶は鮮明であることだ。かなりの度合で自分が読む情報媒体を読者は固定させているのではないか。メディアについてさらに言えば、テレビの影響力は確かに強い。月曜になると細川隆元推薦の本が必ずきかれるのもそのいい例だ。だが、今の若者は、自分の波長に合った情報媒体を、マスメディア、ミニメディアを問わず、自分で選びだし、テレビ以上に価値評価するケースも多いようだ。このような、情報化社会、大衆社会状況がもたらした読書空間の変化は、書籍の分野においても、かつての青年の読書と、大人の生活者としての読書という区別を失わせ、一様に、実用性を中心とした生活者としての読書への変化として、現われている。これは、かつては、さまざまなレベルの人間関係の中から体得してきた生活者としての知恵から、今の若者が大衆社会情況の中で疎外された結果であり、メディア情報に対する受動的な対応の一つの現われであると思う。さらに、情報の多様化と呼応して、書籍の選択の多様化として現われている。こうした書籍の選択の実用性への傾斜と多様化に本屋はどう対応すべきなのか。一つの方向として、広大なスペースの多様化に応えるべくさまざまな本を置き、本も実用性の高い本の比率を多くする、という方法が考えられる。
  しかしそれは、私の店のような地方の小書店には不可能なことである。一つの実験として、総合大書店のとる道と全く逆の道、非実用の「知」を徹底して集めた専門性の強い書店を選択してみたい。この選択は、非実用の「知」の集積として書店自体が一つの情報となり、非実用の「知」を求める読者の実用性に書店自体 が応える道である。つまり、「あそこの本屋に行けば、他店にない何々が必ずある。」という情報になり、すぐもとめられる実用性に応えられる本屋になること である。実用書を必ずしも置く必要はない。読者像の変化をさぐるアンテナとして、裾野は常に広げつつも、より専門性の高い本屋をつくることだ。それが平板な総合性よりは、多様化した本の選択の一定の領域により的確に対応できる道である。何にでも応えることは超大型の総合書店でさえ不可能である。何でも置いているように見えるデパートでさえそれなりの客層のしぼり込みをやっているのだから。
  今まで見てきたように、情報化社会、大衆社会情況は、読書空間の変化に大きな影響をおよぼしてきた。だがそれが読書空間の変化の本質であるとは言えない。 逆説的に聞こえるかも知れないが人文書を読む若者は昔と比べて決して減ってはいない。「知」を求めるということは若者の本性である。今の情況の中で相対的に減少して見えるだけだ。むしろ読書空間の変化にとってより本質的なことは、かつて影響力を持っていた「知」が、何か新しい「知」にとって変わりつつあるのではないか、ということだ。しかしそういう予感はあっても今までの人文という枠では新しい「知」は見えにくい、ということが本屋の対応を難しくしてい る。一例をあげれば、かつてかなりの影響力を持っていたマルクス主義的な歴史観、社会観が今の情況への対応力(迎合ではない)を幾分失いつつある。しかしそれにとってかわる芽がなかなかはっきりとした形では、見えてこない。そして、記号学、精神分析学、人類学など、現在活性化している分野においてそれを棚 で表現しようとすると、人文の枠や小分類の枠を越えてしまう。しかもそれは、本屋に新しい棚の組みかえを強いているような気がする。例えば、栗本慎一郎の 『パンツをはいたサル』は、カッパのコーナーに入れたら人文書の棚からはずされてしまう、という問題だけにとどまらない。書名文体から判断すれば、面白エッセイに入れたら良いのか、著者の肩書から経済学のコーナーに入れるのか、それとも内容からして哲学思想に入れるのか迷ってしまう。『パンツをはいたサル』を読む読者の価値観を本屋の側が直接的に読みきれないのだ。こうした例はいくつでもある。こうした迷いを抱えながら、読者とともに新しい「知」の芽を探っていくしかない。本屋が直接的に「その本」を「あるべき棚」に収めることができるようになるまで。
 

  人文書について

 
  人文書は普通、心理、哲学、宗教、といった分類に属する本の総体を示すようだ。もともと人文書という言葉は、出版業界用の分類用語でしかない。だから、例えばある読者が、書店の心理、哲学、宗教の棚をみて、「情況への対応力」(迎合ではない)をもった「知の総体」というイメージを持てば、それが書店の概念を指し示すことになる。そして書店は、読者が求めるイメージにそって人文書を再構成して行けばいい。普通に考えられている人文書に隣接する自然科学の一 部、美術、文学、批評、演劇なども含めた意味で人文書という言葉を使いたい。
  私の店の二階の棚がそうなっているからでもあるが、それ以上に、例えば、詩人であり思想家である吉本隆明の仕事、さらに、科学史家の村上陽一郎、経済学者である栗本慎一郎等の仕事を見ていると、隣接している諸領域の中に、人文書の危険を救う何かがあるような予感がするからだ。次に、読者のイメージにそって人文書を再構成するということは、本屋が従来の人文哲学といった言葉の呪縛の虜になって、本を狭い分類の枠に閉じ込めてしまうことへの自戒でもある。本屋は、棚に本を差し込むことはできても、棚は本質的に読者がつくっていくものである、ということを常に頭に入れて置かねばならない。
  次にもっと細かく、人文書の棚をみてみる。一例として、心理学の棚を例にあげる。この棚の中で、ユング・フロイトを中心とした精神分析学、岸田秀等の社会心理学という分野のウェイトが高くなっている。しかしこれらの本は、実験心理が主流である仙台の心理学の先生には、見向きもされない。むしろ社会学、宗教学の先生によく買っていただいている。とすれば、精神分析学、社会心理学の欄は読者のイメージを優先させるとすれば、社会学、人類学と隣接する位置にもってきて、実験心理学の本は自然科学のところにもっていくべきであろう。このように、記号学、文化人類学、精神分析学といった新しいテーマの本は、従来の哲学、心理、宗教という分類の枠を越えた所で棚がつくられる。新しいテーマにそって人文書を組み換え、常時、棚のミニコーナーとして定着させていくことが、 書店にとっての大きな課題である。
  さて、大型店を中心に、人文書の新しい形のブックフェアが盛んである。ざっと見ただけでも「シュルレアリズム」「記号論」「1920年代論」「精神世界」 「アナール学派」と、私の店でも、是非やってみたいテーマである。このブックフェアは、新しいテーマ、新しい「知」の芽が、今までの人文書の棚の組み換えを強いていることへの書店の対応の一つの現われである。今のところ、これは情報収集能力、集本力から大都市の大型書店の先駆的な取り組みによってためされ ている。しかし、地方の小書店としても、店のアピールとか、一時的な売上増とか、といった問題とは別に、取り組んでいかなければならない課題である。
  人文会さんから与えられたテーマ、「専門書を地方の書店がいかに売っていくか」というテーマとかけ離れた文章になってしまったが、確かに地方の書店が専門書を売っていくことの困難さは数えていったらきりがない。例えば、私の店では、店売を支えるために、大学を主力とした外売をやっている。人文書の棚について書いている私自身、日中は、ほとんど大学の先生のところを駈けずり回って、本を売り歩いている外売の人間である。
 しかし、こうした地方書店の抱える個別の問題へのさまざまな取り組み以上に、読書空間の変化、「知」の変化にどう対応するのかが大書店・地方書店を問わず、本屋に重くのしかかっている課題である。

初出:『人文会ニュース no.37』(人文会、1983)
資料協力:人文会