インタビュー:高野ムツオ(たかの・むつお)さん〈俳誌『小熊座』主宰〉
◆『小熊座』は俳句結社「小熊座俳句会」が発行する俳誌で毎月発行。1985年(昭和60)に佐藤鬼房(さとう・おにふさ/1919〜2002)が塩竈市で創刊した。現在は高野ムツオさんが後を継いで主宰している。発行所の所在地は多賀城市。
◇『小熊座』という、60ページ前後の俳句雑誌を毎月発行しています。塩竈市に住んでいた俳人の佐藤鬼房が、創作活動の拠点として1985年に創刊しました。今年(2015年)がちょうど30周年になります。
発行している結社の名前も「小熊座」で、東北を中心に同人が120名ほど、会員が200名ほどおります。2002年に鬼房先生が亡くなり、その前年から私が主宰者を引き継ぎました。
鬼房先生がこの俳誌と結社を始めるにあたって定めた「人間風土の尊厳を思い詩性の昂揚をめざす」という目標を、私も継承しています。俳句結社では主宰者や先輩に学んで作品の向上を目指すのですが、小熊座では、自らの生活や社会における立場を大切にして創作に励み、自己研鑽を重んじる点が特徴です。
結社を引き継いだ14年前、私は中学校の教員でした。俳誌は、同人の作品は本人が選んだ作品を掲載することも少なくないのですが、『小熊座』では同人の作品も主宰が選びます。「同人もたくさん作ってほしい」という鬼房先生のお考えからです。当初はあまりの多忙さに月はじめの発行を守れず、お叱りを受けたこともたびたびでした。
今は勤務を離れましたし、やはり最近退職した方が編集長を務めてくださっていますから、だいぶ順調に発行できるようになりました。もちろん大変ですが、仲間たちの作品を読むのは楽しいですし、自分の句作りの刺激にもなります。若い人の作品に成長が見えた時には大きな喜びを感じます。
◆高野ムツオさんは現代の代表的な俳人の一人。1947年(昭和22)宮城県に生まれ、國學院大學卒業後、仙台市の中学校教員として勤務した。句集『萬の翅(まんのはね)』(2013年/角川学芸出版:第65回読売文学賞[詩歌俳句賞]・第6回小野市詩歌文学賞・第48回蛇笏賞)、『時代を生きた名句―大人のための俳句鑑賞読本』(2012年/NHK出版)など著書多数。現代俳句協会の副会長を務めている。
◇最初に俳句を作ったのは小学校4年生の時です。私の故郷は栗駒町で、今は合併して栗原市になっています。父も俳句を作っていて、父が好きだった私は句会にもついて行っていました。
あるとき高名な俳人である阿部みどり女(じょ)先生が、句会の会場であるお寺に見えられました。仙台にお住まいで「河北新報」俳壇の選者でもあった先生がいらっしゃるのは、年に二三度だけの機会です。周囲の大人に促されて、私も句を作ってみました。
夏の雨うるさく響く夜の寺
私は今でもこの句から、当日の会場の様子や雰囲気を鮮やかに思い出すことができます。わずか十七音で多くのことが表現でき、また短いためにずっと記憶しておけることが俳句の大きな魅力でしょう。そしてこの句が、なんとみどり女先生の選を通ってしまったのです。
中学生になってからは河北俳壇に、高校生になってからは先生の主宰する『駒草』に投句しました。『駒草』では伝統的な写生が重視されましたが、私は徐々に自分の気持ちを表現する、新しい傾向の俳句を志すようになります。東京で大学生活を送るようになってからは、そうした志向に合う、やはり高名な俳人である金子兜太先生の『海程』に発表の場を移しました。みどり女先生にはその後も温かく見守っていただき、深く感謝しています。
大学の卒業後は就職のため宮城県に戻り、多賀城市に住み始めます。隣接する塩竈にお住まいだった鬼房先生のことは存じ上げていましたし、『海程』に先生の句集を紹介する文章を書いたことからお会いもしていました。こうしたご縁で先生が『小熊座』を始められた時に私も参加させていただいたのですが、翌年先生は大病をなさって手術を受けられます。病院のベッドでも熱心に俳句のお仕事を続けておられる姿を見て、お手伝いを申し出ずにはいられませんでした。こうして少しずつ、『海程』から『小熊座』へと表現の軸足を移すことになったのです。
俳句は自然を愛し、季語の力を生かして自然をうたうものです。しかしその背後には、必ず「自分」が表現されています。兜太先生も鬼房先生も、時代を詠み、人間の想いを詠み、社会との関わりを詠むことを重んじ、私もそうした句を心がけました。
◆「河北新報」で俳壇選者を務めるなど、高野ムツオさんは仙台・宮城の文芸振興に寄与してきた。約500名の会員を擁する、宮城県俳句協会の代表でもある。2009年度から11年度まで「NHK俳句」の選者を務め、テキストの連載をまとめた『時代を生きた名句―大人のための俳句鑑賞読本』では、東日本大震災で被災した俳人の作品を巻頭に紹介している。
◇私は『小熊座』に関わる中で、自分の暮らす土地や生活の場を大切にすることを学びました。現在の情景だけでなく、地域と人々の長い歴史を含む「風土」を思うことで、表現を深められるようになったのです。
それだけに鬼房先生が他界された際には深い悲しみに襲われ、師を失ったことで創作にも迷いが生まれました。さらには自分も大病に見舞われて命の危険に直面します。しかし私は俳句のおかげで、こうした苦しみを自分自身や表現に向き合う機会だととらえることができました。俳句から生きる力を得たのです。
2011年3月、東日本大震災が発生します。最初は「俳句など作っている場合ではないだろう」とも思ったのですが、すぐにその場に生きている者、被災者自身が俳句を作らなければならない、と考え直しました。地震の発生時にいた仙台駅から多賀城の自宅まで歩いた間にも、次々と句が浮かんできます。テレビの映像や新聞記事から句を作ることを否定はしません。しかし当事者にしか作れない句があるのです。
帰宅後も停電した自宅で懐中電灯を頼りに作句を続け、雑誌に発表した作品では高い評価をいただきました。俳句は作る文芸であると同時に、読む文芸でもあります。私が込めた想いを上回る何かを読み取っていただけたことに喜びを感じ、また多くのことを教えられました。
震災時の作品を含む『萬の翅』は大きな賞をいただきましたが、前の句集以後の10年間の作品を集めたもので、以前からの予定に従った刊行でした。書名のもとになった作品も震災前のもので、それを被災後の情景とも読めると評価していただけたのですから、これは私の力というよりも、俳句という器の力に他なりません。
震災は甚大な被害をもたらしましたが、一方で多くの人々からたくさんの優れた句が生まれました。俳句という文芸は作る側と読む側が同一で、句会などの場で互いに評価し合うという伝統があります。さまざまな見方、考え方を尊重するため評価は多様で、同じ一人の人間の評価が時を経て変わることも否定しません。こうした俳句の特質が、それぞれの被災体験に基づく、巧拙を超えた優れた作品を生んだのでしょう。
東北は古代から差別され、征服され、虐げられてきました。しかし実は東北には独自の文化や想いがあり、歴史や宗教があります。風景の美しさに加えて、自然の恵みである豊かな作物があります。「弱者」である東北だからこそ、それを強みに変えて表現することの意味が大きいと言えると思います。
「小熊座」では震災支援俳句コンクールを催しましたし、4つある俳句協会では震災の句を募り、合同で一冊の本を作っています。宮城県俳句協会では、それに先だって全国から震災の句を募り「わたしの一句」という本を出版しています。震災を詠んだたくさんの句に接する中で、私は「誰にでもその人にしか作れない世界がある」「この人たちと一緒に句を作って行こう」という想いを新たにしました。
◆『小熊座』は2014年までに355号が発行されていて、今年(2015年)創刊30周年を迎える。
◇情報の新しさの点では、紙媒体はインターネットにかなわないでしょう。俳句でも、ネットを利用した匿名の句会など、さまざまな試みが行われています。
しかし文芸誌には紙媒体ならではの良さがあることも確かで、『小熊座』も毎月の発行を多くの方々が楽しみにしてくださっています。知り合いの俳人や注目している俳人の作品を読むことができ、過去の号もすぐに取り出して見直すことができるのです。一句一句は一息で飛んで行きそうな軽い抽象の世界ですが、一冊のまとまりになれば重さが生まれます。インターネットの中の俳句の面白さを否定はしませんが、積み重ねられた紙の重さには、やはり独自の価値があるのではないでしょうか。
『小熊座』は今後も、これまでの方向性を保って続けて行きます。ただ、なかなか若い人の新たな参加が得られず、作者が高齢化している点は心配です。俳句には年齢を重ねることで深みが生まれるという面があり、高齢者が優れた俳句を作ることは珍しくありません。若い世代が作る明晰な句とは、また別の魅力があるのです。しかし年を取ってから始められた方の多くが「こんなに楽しいのなら若いうちからやっていれば良かった。高野さんがうらやましい」とおっしゃいます。
俳句は庶民の文芸であり、「世界最短の詩型」と呼ばれるほど、短く作りやすい詩でもあります。音楽やスポーツなど、他の趣味を楽しみながらでもできますから、ぜひ若い人たちに俳句の魅力に触れてほしいと思っています。若い時期にはその時にしか作れない俳句があるのです。
(インタビュー:2015年3月18日)
〈取材・構成:大泉浩一〉