グラスルーツ・マガジンズ ー文芸編ー

佐藤通雅さん〈短歌・評論誌『路上』主宰〉

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インタビュー:佐藤通雅(さとう・みちまさ)さん〈短歌・評論誌『路上』主宰〉


◆『路上』は、歌人・評論家である佐藤通雅さんが発行する個人誌。1966年(昭和41)に個人編集誌として創刊され、佐藤さんら歌人たちの作品や、佐藤さんの短歌論、社会批評などを掲載してきた。年2〜3回の発行を続け、2011年に第120号をもって一度終刊。現在は主に佐藤さんの作品と評論を発表する個人誌として、第II期『路上』を発行中だ。


◇私は高校までを岩手県水沢市(現奥州市)で過ごし、1960年(昭和35)の安保闘争の翌年、東北大学に入学しました。学生運動の盛り上がりがまだ残る中、自分の表現のあり方を考えた私は、あらゆるジャーナリズムから自立した個人編集誌を出したいと思うようになります。吉本隆明らが編集・発行する『試行』、村上一郎の『無名鬼』、北川透の『あんかるわ』などを読んで、自分の力で表現を開いて行こうとする姿勢に共鳴したのです。

 主に費用の問題から、短歌や評論を掲載する『路上』を創刊したのは就職後です。教員1年目の1月にわずか70部で出発し、年に2回から3回のペースで出し続けて今に至ります。「何ものにもおぶさることなく、宣伝もせずにやっていこう」と決め、費用はボーナスを丸ごと注ぎ込みました。

 しだいに購読者が増え、部数も増えて行きました。仙台駅の西口にあった「八重洲書房」に置いた50部、60部が、たちまち完売するようになります。権威にとらわれない姿勢に共鳴し、『路上』に作品を発表したいという方も集まって来ました。今では高名な歌人になった方々が原稿料も無しに書いてくださるなどして、『路上』は文学・思想の総合誌に成長します。

 しかし一人で原稿を書き、編集をし、校正をし、印刷所とやり取りをし、発送までするのですから、500部が限度、最高は600部でした。千部単位の発行を望む声もありましたが、共同作業を導入しなければ不可能です。考えて、私は個人で出し続ける道を選びました。

 『路上』を発行し続けて、今年は50年目です。励みにしていた先行する自立誌も、今では一つも続いていません。私がここまで続けられたのは、栄誉を求めず、ただ文学的な価値だけを追求してきたからだと思います。そしてもう一つ、一人でやって来たからこそだ、とも思っています。


◆佐藤通雅さんは現代の代表的な歌人の一人。1943年(昭和18)岩手県に生まれ、東北大学教育学部卒業後、宮城県の高校教員として勤務した。歌集『昔話(むがすこ)』(2013年/いりの舎)、歌集『強霜』(2012年/砂子屋書房:第27回詩歌文学館賞短歌部門)、歌論『宮柊二 柊二初期及び『群鶏』論』(2012年/柊書房)など多数の著書がある。


◇短歌を作り始めたのは小学生のときです。岩手県出身の歌人・石川啄木の作品に触れたことがきっかけでした。中学や高校では詩や小説も書きましたし、成人後は児童文学を書いて本も出しましたが、やはり短歌が自分の気質や表現には合っていたようです。

 一般的に言えば短歌は、「季語を詠み込む」などの規則がある俳句よりも作りやすいと思います。また禁欲的で、むしろ「自分を消す」ことを求められる俳句に比べて、短歌は自分の感情や想いを率直に表現しやすいとも言えるでしょう。

 短歌は万葉の時代から1200年も続いています。五・七・五・七・七という音の連なりは、もう日本人の体質だと言っても良いのではないでしょうか。そして、ずっと文語で作ることが良しとされてきましたが、今では口語でも良い短歌を作れるというのが常識になりました。私も基本的には文語で詠みますが、口語の作品も多く作っています。


◆「河北新報」で1989年(平成1)から歌壇選者を務めるなど、佐藤通雅さんは仙台・宮城の文芸振興に寄与してきた。またNHKが東日本大震災を詠んだ短歌を募集し、Eテレで「ハートネットTV特集 震災を詠む2013 ~鎮魂と希望と 三十一文字の記録~」として放送された際には東直子氏と共に選者を務め、『また巡り来る花の季節は 震災を詠む』(2014年/講談社)にまとめられた。


◇『路上』を始めた1960年代、地方に定住して文化・文学を発信して行こうというのは、私の一つの覚悟でした。当時は文化・文学の中央志向がとても強く、「東京で一旗揚げる」という感覚があったからです。

 しかし通信や交通が発達し、それぞれの地域から全国に発信することが容易になった現在では、地域差はほとんど問題になりません。むしろ「地方にいるからこそ見えるもの」が、文学の大きな財産になると言えます。

 「河北新報」で歌壇の選者を始めてからは、特にそう思うようになりました。山に、海に、そして街に暮らしている方々の声が、投稿された歌から聞こえてくるのです。地域の行事や農作物の出来など、生活そのものの想いが短歌に表現されることの重要さをあらためて知りました。

 2011年3月の東日本大震災の後、河北新報は壊滅状態に陥りながらも発行を続けましたが、短歌・俳句欄が再開されたのは5月でした。その間は、朝日新聞をはじめとする全国紙に被災地からの投稿が増え、優れた作品が数多く掲載されます。

 しかし宮城、岩手、福島という大きな被害を受けた3県を主な発行地域とする河北新報で歌壇が始まると、寄せられた作品の水準は、質、量ともに全国紙にまったくひけをとりませんでした。私が選ぶことができるのは毎週20首なのですが、本当は毎週200首ずつを選んで紹介したかったほどです。

 実体験に基づく迫真性は、テレビの映像を見て作られた作品とは明らかに違いました。どの短歌にも、歴史的瞬間に立ち会った体験を残したいという必死の想いが込められています。私は泣きながら読み続け、選者という自分の立場を呪いさえしました。

 河北歌壇の掲載作は、後世に伝えられ、また評価され得るものだと確信しています。一方、以前は歌を詠んでいた方々の中にも、幼いわが子を失ったり、東京電力福島第一原発の事故による避難が続いているなどして、今でも歌が作れずにいる人が数多くいることも、決して忘れてはなりません。


◆『路上』は2014年までに130号が発行されている。現在の発行部数は約200部。


◇私は今72歳です。ボケてきたらその時がやめ時かとも思いますが、2011年からは第II期としてページ数や発行部数を抑えたこともあって、しばらくは発行を続けて行こうと思っています。

 一方、印刷媒体だけで文化や思想を伝えることは難しい、と感じるようにもなりました。今はインターネット上にブログを書いていて、まとめたものを『路上』に収録しています。

 ネットだけでなく、人が実際に集まる「場」の必要性も強く感じています。2012年の4月、私は「路上発行所」として、仙台文学館で「震災詠を考える〜被災圏からの発信」というシンポジウムを開きました。「被災地を励ます歌」という特集を組むような、全国向けメディアの震災の取り上げ方に納得できなかったからです。100名の定員に対して会場に入りきれないほどの参加者があり、被災地からの表現や発信が強く求められていることを実感しました。その後も毎年開催していますが、今後もぜひ続けて行きたいと思っています。

 表現の場は印刷媒体から電子媒体へと移りつつあり、書店もずいぶん減りました。しかし私は、印刷媒体は無くならないだろうと考えています。

 一つは震災時に、電子媒体はおろか、停電によってテレビさえも全く無力だったという経験をしたからです。最も機能したのは新聞で、避難所で配られた河北新報は、被災者の方々にむさぼるように読まれました。そしてしばしば、紙に書かれた掲示板や伝言板などの文字が、人と人をつないだのです。「手書きは残る」とも、思わされました。

 媒体を「手書きから電子媒体まで」と幅広く考えると、印刷物はその中間にあると言って良いでしょう。特に詩歌の表現では、印刷された文字に独特の重みがありますし、作品に印を付けたり一言書き込んだりしながら読むことで鑑賞が深まります。

 若い人たちが電子媒体に惹かれるのは便利さだけでなく、安いからという経済的な問題も大きいのではないでしょうか。また大規模な個人情報の流出など、電子媒体特有の危険性にも目を向ける必要があるでしょう。私はこれからも印刷媒体である『路上』を出し続けるとともに、表現者として「手書きから電子媒体まで」幅広く可能性を考えて行きたいと思っています。

(インタビュー:2015年2月26日)

〈取材・構成:大泉浩一〉